行政書士 河野八十八

はじめまして。
河野八十八(こうのやそや)と申します。
私どものHPへご訪問いただきありがとうございます。

ここでは、私のユニークな名前の由来をご紹介いたします。

私の名は父が名づけました。

父は終戦時にちょうど中学生位の年代で、兄弟たちの長男でした。
高度経済成長期に生まれ育った私の年代では、
戦中戦後は教育で学ぶ過去の史実ですが、私は父の原体験としての戦中戦後を学びました。

父の両親は戦後混乱の中で家族の生活を必死で模索する毎日。
長男であった父は学校だ勉強だとは言っていられず、兄弟たちの世話や家計を支える担い手とならざるを得ない状況でした。

当時、近鉄電車が名古屋から大阪阿倍野辺りまで通じ、
父が名古屋のヤミ市で米の買い出しから帰ってきたとき、阿倍野では警察の取り締まりがあったそうです。

両親が工面したなけなしのお金で仕入れたお米。
腹を好かせた兄弟たちが心待ちにしているお米。
父はそんな想いに動かされて、そのお米を担いで走って走って走って、家族の元に届けたといいます。

「重たい米を担いでよく走れたもんや。」
「人間は人のためにはえらい力がでるもんや。」
「アカんことやけど、やらないかんかった。人間は矛盾だらけや。」

父の口癖です。そんな時代にラジオから聞こえてきた唄が詩人西條八十のものでした。
父は、西條八十の唄に元気をだし時代を生き抜いていきました。

唄とお米が、父の原体験です。西條八十からは「八十」をいただき、
組み合わせると「米」の字となるよう「八」を足し、原体験を私の名前に託したんだと聞かされました。

私は、教育で学んだ戦後復興の史実の中に、
父と同じように火事場のエネルギーを発揮したあまたの人々がいたことを想像しています。

「もっともっとやらなあかん。」

老若男女、高齢者や障がい者が共に競い合い交流することができるバリアフリースポーツとして
NPO法人日本車いすビリヤード協会で全国大会を実現したときもそうでした。

就労を支援するカウンセリングを担当し、失業状態にある休職者のサポートの中で、
失業や生活保護などの社会問題に取り組んだときもそうでした。

市会議員秘書として、地域企業や住民からの相談援助走り回る日々もそうでした。

そして、それらすべての経験を活かし、行政書士として活動する今現在も
私の中には戦後復興の一翼を担った人々の想いが生きています。

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  • 行政書士河野八十八事務所 代表
  • 株式会社TU-GUIA 代表取締役
  • 一般社団法人行政書士協議会 副理事長
  • オスラー病患者会 副代表

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